本の感想「悪の恋愛術」(講談社現代新書 福田和也著)

cosmos222012-07-13

「以前、福田和也さんの「悪の対話術」の感想をブログに書きましたが、今回は「悪の恋愛術」を考えてみようと思います。
今回の恋愛術にも「意識的」という言葉が何度も出てきました。
『恋愛のなかに存在しているのは「意識的」な独りよがりと「無意識的」な独りよがりだけである。』
「意識的」を辞書で調べると、「自分でわかっていてわざとするさま。故意」。
「独りよがり」は「他人の意見を無視して自分だけでよいと思い込んでいること」。
両方の意味をつなぎ合わせてみてもあまり褒められた言葉ではなく、こんなことを断言されてしまうと恋愛に思い描く夢が崩されてしまうかもしれません。
著者本人が宣言されているように「悪の恋愛術」はある意味で前著以上に悪辣な著書だと書かれてありましたが、私も何度か読み返しましたが同感です。
だから、読む人にとっては納得できず、この路線に反感を持ち己を通して生きてゆく方もいらっしゃると思います。
ただ、私は福田氏のような振る舞いを今後真似出来ないかもしれませんが、このように物事を客観的に考えられる人に魅力を感じます。

文中の中に、
19世紀フランスの作家スタンダールは、「恋愛論」においてにおいて、ザルクブルクの小枝を比喩として、恋愛の「結晶作用」について、論じています。
「…ザルツブルクの近郊には岩塩の鉱山がたくさんあります。
その、岩塩を掘っている銅の中に小枝を投げ込んでおくと、
半年ぐらいの後には、微量の湿気とともにその枝についた塩分が固まって、
見事な塩の結晶で小枝は覆われて、まるでひと固まりの宝石のようになるそうです。
スタンダールは、片思いが、その対象をいかに美化するか、ということをこの鉱山での現象をひいて、「結晶作用」と云いました。
つまり、恋に落ちた人間の感情というのは、大きな岩石の銅のようなものです。
そこに、恋する人、つまりは片思いの対象である相手が、小枝として投げ入れられる。
すると本来、小枝でしかない相手が、みずからの恋情から分泌されたエキスによって、大変美しい結晶にまで育ってしまうのです。」と、ありました。
ただ、著者は美化されてしまうことが良いとか悪いとかではなく、それが恋愛の事実があるのだと云います。

この比喩は、言われてみればその通りだと思います。
私にも若かった時代があり、その頃はたくさんの男性をこの岩石の銅の中に小枝として投げ入れていたのでしょう。
いまだに投げ入れっぱなしの人も数人いるかもしれませんが…。
あの頃は、片思いの対象者を宝石と化し、巨大化して見てしまう自分がいたのでしょう…。
そして、そこに自分自身を置くことで、自分もその対象者と対等の存在に近づけたのだと錯覚し、その場所に執着し離れることが出来ずにいたのかもしれません。
身動きができなくなってしまうものは不幸なことなのかもしれません。

今さらではありますが、恋愛の事実を知ること。
そして、意識的を心がけることで複雑な人間関係を理解し、今後の社会生活に役立てられればと思いました。